「キリストに結ばれて」 04.04.18
コリントT 12:12〜27
聖書は、私たちの姿を映し出す鏡です。
罪を抱え、情けなさを抱える自分自身の姿を、聖書に登場する人の
姿を通して知らされることがしばしばあります。同時に、そんな私たちが、
主の十字架と復活によってまったく別の姿に変えられてしまったことも、
映し出します。
<あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です>
(27節)と聖書は告げます。驚くべきことです。
自分のことを、そのように見えないかもしれませんし、信じられないかも
知れません。
しかし、聖書は、はっきりと告げます。これが、私たちの本当の姿で
あり、神さまから見える私たちの姿です。
私たちは、キリストの一部分とされています。神さまからは、キリストと
一緒にあるものと見えるのです。キリストと離れた、別の存在には見え
ないのです。死に勝利し、よみがえられたイエスさまの一部です。
ですから、私たちはイエスさまと同じく、復活の姿にもあずかるのです。
(ローマ6:5)
私たちは、「洗礼」という神の恵みの出来事によってそのように
変えられました。<皆一つの体となるために洗礼を受け…>(13節)。
洗礼を受けても、自分が変わったと思えない…。そんなふうに感じる
ことがあります。
しかし、自分自身でどんなに変わらないように感じたとしても、
人の目からは同じに見えたとしても、私たちは、神の業によって別人に
変えられています。
それは、人の努力や力では決して得ることのできない変化です。
この変化を与えられた自分であることを、見失ったり、疑ったりする
必要はありません。
自分の小ささを知っている私たちは,すぐ「自分は○○ようには
なれない…」などと言いたくなります。
しかし、そうではないのです。神さまは、「○○のように」ではなく、
なくてはならない一部としての場所を一人一人に与えてくださって
います。
キリストの体の一部として、意味を発揮する場所が必ずあります。
私たちは、キリストの体である相手を重んじ、配慮し、共に苦しみ
喜ぶ群れとして、新年度を進めたいのです。